金次郎は福岡市南区出身ですが、それを知る多くの方から「今度博多に旅行に行くんだ」、「博多っていいところだよね」と言われ、正直違和感を感じることが結構有ります。金次郎も含め大部分の福岡市民は福岡≠博多という認識で、博多と聞くと博多駅か福岡市博多区を思い浮かべる人が大半なのではないかと思います。なので、博多ってどこが面白い?天神?(天神は福岡市中央区の繁華街であり博多とは呼びにくい)とか、今度博多観光で大宰府に行くよ(大宰府天満宮は博多区は勿論福岡市でもなく、はるか南の太宰府市に有る神社)、などの趣旨の発言をされると頭の中の空間認識が歪んで混乱してしまい、冗談抜きで叫び出したい気分になったりいたします(笑)。
この誤解と誤用の背景としては、JRの主要鉄道駅の名称が博多駅となっていることや、博多ラーメン、博多めんたい、博多人形などの名物にその名が冠されることが多いことなどが挙げられると思いますが、この博多ブランドの威力を生み出しているのは、博多が古来より博多湊や博多大津として知られる博多湾沿岸に発達した日本最古の港湾地域の呼称であり、その歴史の古さに拠るところが大きいと思われます。その歴史をざっと紐解いてみると、古来からの交易都市の中核として那珂川河口地帯の東側の地域が特に発展し、ここに国内外の商人が集住して町を形成したのが商業都市博多の始まりということになりますが、8世紀ぐらいまで遡れるようなので古さだけは間違い無いところかと思います。そして、戦国時代の1586年、島津義久により博多の町が焼失させられた後、九州を平定した豊臣秀吉によりその翌年から始められた町の復興と、それに伴う所謂〈太閤町割り〉において、那珂川と御笠川に囲まれた地域が新たに博多として整備され、更にその中に細分化された7つの〈流(ながれ)〉と呼ばれる地域ごとのグループが組織され、その流が現在に至るまで著名なお祭りである博多祇園山笠を運営する主体となっていくこととなりました。ちなみに博多祇園山笠は1241年に疫病退散を祈念して始まったとされる櫛田神社の神事で、7つの流がそれぞれ山笠と呼ばれる神輿を神社に奉納するイベントとなっております。福岡では「山笠のあるけん博多たい=山笠が存在するからこその博多なのだ」とよく言われるのですが、改めて歴史を振り返り考えてみると、元寇で大きな被害を受け、その後も室町時代から戦国時代にかけて幾度も焼亡の憂き目に遭った博多の町が、挫けることなく災禍を乗り越えて復興を遂げることができたのは、総鎮守である櫛田神社への信仰とその信仰を通じた結束の象徴としての山笠の存在が大きかったのだろうと、奥深いこの言葉の意味を理解することができました。金次郎の若かりし頃は、小学校の先生たちの間でもまだまだマルクス的階級闘争史観の影響下にある勢力が強く、地元の歴史を教える社会科の授業でも農民や商人が結束して武士に歯向かった的な出来事しか教えてもらえず、もう少しこういうことも知りたかったなと思いました(笑)。話はややそれましたが、江戸時代となり、黒田家が藩主としてやってきた際に那珂川の西側の地域を新たに開発し、商人の町博多に対して武士の町としての福岡を造り、博多と福岡は江戸時代を通じて那珂川の東西両岸に位置する双子都市として栄えていたという経緯でございます。その後明治時代となり市制を導入するにあたり、博多市とするか福岡市とするかでかなり揉めたようですが、最終的に福岡市が採用され、その代わりにJRの駅名を博多駅とする妥協が成立し、このことが冒頭の金次郎の違和感を生み出す捻じれの大きな要因となったわけです。そういえば、小さい頃から福博という表現を耳にすることが有り、正直どういう意味なのかよく分かっておりませんでしたが、今回調べてみてようやく福岡と博多を区別しながらまとめて呼ぶ呼称だったのだなと理解することができました(遅い)。東京では江戸という呼称がかなり徹底的に排除されていることを考えると、パラダイムシフトが起きた明治維新後の激動期から現在に至るまで博多の地名が生きながらえることができたのは、それがさほど政治色を帯びておらず商人の町の象徴であると一般に認識されていたためと思われます。しかし、あまり厳密にこだわり過ぎると、博多もん、博多弁という表現も使いづらくなってしまいますし、HKT48も微妙な感じになってしまいますのでもうこういう面倒臭いことを言うのはやめようと思います(笑)。
さて本の紹介です。岩波なのにちょっとゴシップ風のタイトルが気になり「会計と犯罪 郵便不正から日産ゴーン事件まで」(細野祐二著 岩波書店)を読んでみました。著者は粉飾決算事件における共謀容疑で逮捕・起訴された後も一貫して無実を主張し闘ったものの、最終的に有罪判決を受けた経歴を持つ元会計士で、検察への恨みのエネルギーは凄まじいです(笑)。郵便不正事件を取り上げ、無罪となった厚労省の村木局長(当時)と自分とは何が違い、有罪と無罪を分けた分水嶺となったものは何だったのかを突き詰めて考えている視点はなかなか面白く読めました。要は、経済事件では、わざとではないという故意性を争点にするのは負けパターンで、不正の事実は有ったが故意ではなかったと主張するのではなく、不正そのものが存在していないという立場で争わなければ勝てないとの内容でした。検察側には自分たちの筋書きに合わせて如何様にでも証言を創出できる〈検面調書〉という打ち出の小槌が有るために、故意性はいとも簡単に立証されてしまうというのが背景のようですが、何とも恐ろしい話だなと怯えながら読みました。しかし、障碍者団体に与えられている郵送料の割引制度を悪用して利益を得るというセコい犯罪(=郵便不正事件)の検挙が事件としてショボ過ぎるというだけの理由で、証拠まで捏造して村木局長の公文書偽造指示という組織ぐるみ不正のストーリーをでっち上げようとした検察の姿勢には呆れ果てて言葉も有りません。その他にも英会話ジオスの倒産に絡んで、ジオスの傘下であった九段日本語学院及び九段日本文化研究所の再建にCEOとして取り組んだ話などは大変興味深く読めましたし、自動車販売会社の再建についてのくだりは今話題のBMなのではないかと少しドキドキいたしました(笑)。最後のカルロス・ゴーン元日産CEO関連の考察も目から鱗なので興味をお持ちの方はぜひ読まれることをおすすめいたします。経済事案を題材とした本としては「実録 脱税の手口」(田中周紀著 文藝春秋)がベテラン国税記者の手による具体的かつ詳細な脱税手法の解説になっていて、一時騒がれた〈青汁王子〉やチュートリアル徳井の申告漏れの話なども出てきて大変興味深い内容でした。
簡単にもう一冊。直木賞作の「木挽町のあだ討ち」(永井紗耶子著 新潮社)は、雪の降る夜に芝居小屋のすぐそばで、美しい若衆・菊之助による父親の仇討ちが見事に成し遂げられた一件について、菊之助に所縁の有った人々がそれぞれに事件を回想しながら自らの人生についても語るという構成の時代サスペンス小説です。プロットはオーソドックスで分かり易すぎるぐらいなのですが、この作品の評価のポイントはそこではなくて、江戸の町民の日々の暮らしが芝居という非日常のイベントを軸にしながらなんとも鮮やかに描き出されているところだと思います。金次郎の住む人形町にかつて有った中村座の話ではありませんが、芝居小屋を中心に賑わっていたであろうこの辺りの雰囲気を想起させてくれるので自然に入り込み易いお話でした。
技術の進歩は目覚ましく、PCをタイプする音を解析してどういう文章を打ち込んだか95%分かるAIが開発されたと聞いて怖くなりました。一方で、ZOOM社が週最低2日の出勤を義務付けるという話はちょっとそういう流れに逆行していてほっとしました(笑)。
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