金次郎、不朽の名作「釣りキチ三平」に思いを馳せる

先日、「釣りキチ三平の夢 矢口高雄外伝」(藤澤志穂子著 世界文化社)を読み、久々に不朽の名作である「釣りキチ三平」のことを思い出しました。小学生の頃にアニメの再放送を何度も観て、床屋さんに置いてあったコミックスを繰り返し読んで影響を受けまくり、友人と夢中になって近くの川や池で三平になりきって釣りに興じたのが思い出されます。釣りキチ三平のヒットを契機として急速に広まった当時の釣りブームは日本中を席巻していたと言っても過言ではなく、この作品によって釣りを普及させ文化として定着させた矢口先生の功績は計り知れないと感じます。気持ち悪い話で恐縮ですが、

金次郎は釣りえさのミミズやハエの幼虫を冷蔵庫の中で保管していたのを見つかり、母親に計り知れない程激怒された恐怖体験を思い出しぞっとしました(笑)。そんな日本中を動かした三平の産みの親である矢口先生は現在では秋田県横手市に組み入れられている山村の生まれで、当時は超エリートとされた銀行員に村で初めて出世したかなりの秀才として村の期待を集める存在だったようです。にも拘わらず、手塚治虫先生に憧れて志した漫画の道を思いきれず、30歳で周囲の反対を押し切り脱サラしプロを目指したという筋金入りの漫画好きで、自然に溶け込んで狩りをするマタギを描いた作品が編集者の目に留まり世に出られたとの経緯からも分かる通り、特に山紫水明を鮮やかに描き出す画力は抜群で同業の漫画家の先生も自然を描く際には矢口先生の作品を教則本として活用したという逸話が残っている程の腕前だったとのことです。確かに日本全国を股にかけて大自然の中で魚に挑み続ける三平の姿に刺激され、自分もやりたい、やれるかも、というリアリティを感じることができたのは、正にその卓抜した画力故であったと振り返って感じます。残念ながら矢口先生は2020年に81歳でお亡くなりになりましたが、先生の自然に対する熱い思いは名作釣りキチ三平と共にしっかりと受け継がれていくべきものと改めて感じました。ちなみに主人公の名前が三平三平(みひらさんぺい)とかぶっているのは、矢口先生の本名が高橋高雄であることにちなんでいるそうです(笑)。そんな釣りキチ三平のことを思い出しているうちに、ふとしたはずみでとんでもない事実に気づいてしまいました。調べてみると、金次郎と同じく気付いてしまった人々が若干ネットなどで指摘しているようですが、この名作と昨年世界中を熱狂させたあの人気漫画・アニメとの関連が静かに取り沙汰されております。主人公の三平がどんな少年かと言いますと、くりくりした大きな目、しなやかに細くて長い手足、飛び跳ねるような躍動感溢れる動き、釣りに対する真っすぐでぶれないハート、頑固だが優しい祖父と行方不明の父親、死んでしまった兄、そして、トレードマークの麦わら帽子と草履!はい、そうもうお気づきの通り、三平は殆どワンピースのルフィなのです!これはパクリとは言わずオマージュと呼ぶべきものなのだと思いますが、ネット上では、父親にワンピースのDVDを見せたところ、これ釣りキチ三平じゃん。三平が船に乗っているのは分かるけどどうして戦ったり手足が伸びたりしているの?釣りはしていないね?と真顔で言われたとのエピソードが紹介されてしまう程のくりそつぶりなのです。金次郎は三平の兄貴分であり父親代わりの鮎川魚紳(ゾロばりの隻眼)がどうしてもシャンクスに思えてしょうがありません。ぜひ皆さんも画像やキャラを比較検証して、その完コピぶりをご確認いただければと存じます(笑)。

さて本の話です。建築関連の仕事もしているという英会話の講師に紹介されて読んだのが「大聖堂 果てしなき世界」(ケン・フォレット著 ソフトバンククリエイティブ )です。読み始めてから大ヒットした(らしい)「大聖堂」シリーズの2冊目であることに気づきどうしたものかと思いましたが、ヨーロッパ中世歴史大河というかなり好きなジャンルだったこともあってか、途中参加の疎外感も特段感じることなく、全体で2000ページ超のボリュームをものともせず一気に読了してしまいました。まぁ前作を読んでおいた方が楽しめただろうなと思わされる仄めかしが多数有ったのも事実ではありますが。14世紀イングランドのキングズブリッジという町を舞台に、ある謎を縦糸としながら、修道院、女子修道院、貴族、騎士、商人、職人とそのギルド、そして虐げられた農民やそれら人々の埒外に存在している無法者など当時の社会の構成員それぞれに光を当てつつ描かれる数十年に亘る壮大なストーリーはかなりの読み応えでした。絶対に覆ることの無い生まれながらの階級とそれに結び付いた支配と被支配の関係になんとか抗って、自由と幸福を希求し苦闘する主要登場人物3人の中でも、イングランドで一番高い塔を建てることを夢見る建築職人マーティンの才能には心惹かれるものが有った一方でその血を分けた弟ラルフが有り得ないくそ野郎なのが若干腑に落ちないところではあるものの、それは何らかの血統の為せる業であると前作を読めば納得できると信じることにいたします。そんなマーティンと、自由を求めるがあまり最も不自由な修道女にならざるを得ないという皮肉な運命に翻弄されるカリスとの恋の行方も一つの見どころではありますが、とにかく女性の社会的地位が極めて低く、全くと言っていいほど自由が与えられていないという歴史的事実にただただ驚きます。トランプ前大統領でお馴染みの魔女狩りのシーンも出てきますが、悪気の無い人々の集団心理が罪無き女性を追い込んでいく様にはなかなかに怖いものが有ります。また、当時ヨーロッパ中で流行していたペストも物語の重要なモチーフになっており、消毒、マスク、ロックダウンというなじみ深い対処法が登場してかなり親近感を覚えつつも、マスクでペストの感染は殆ど防げないだろう、との突っ込みを入れたくなったのも事実です(笑)。巻末の解説は読書王である故児玉清大先輩が書かれているのですが、シリーズ第一作は彼も夢中になって読んだそうなので、また2000ページ超はやや重いですがGW中の課題図書とすることにしました。

「すしの歴史を訪ねる」(日比野光敏著 岩波書店)は金次郎の大好きなすしの起源と日本各地に残る古いすしの形態について丁寧な実地調査で得た情報を基に編まれたすし史の本です。すしと聞いて心に抱く特別な食事という印象はそのお値段のみに由来するものではなく、古来よりお祭り、お正月、神社への奉納など神様にまつわる畏れ多いイベントで供されてきた料理であるとの感覚が我々の精神に擦りこまれているからなのだそうです。一方、岐阜県には忙しい田植えの時期に直ぐに食べられるように、保存食であるサバずしを農閑期から仕込んでおく実用的な習慣が残っていることも紹介されておりその対比が面白いです。すしの起源はナレずしという発酵ずしで、オリジナルでは発酵促進の目的で使われていた米飯部分は食べる際には取り除いてしまうために、現代のように魚と一緒に口に入れる習慣は無かったというのは驚きでした。室町期にすしが庶民の日常食として普及する過程で米を捨てるのは勿体ないという発想になり魚も米も食べるようになったのだそうです。時代が下るにつれて発酵期間が短期化した生ナレずしが主流となり、短い期間で発酵させるために麹や酒粕を使いちょっと甘めのテイストで食べていた地方も有ったようです。そんな中で、次第にすしというもののコンセプトが魚と米と発酵後の酸っぱい味という特徴に収斂していったわけですが、最終的に発酵期間が極小になり発酵が完了する前から食べてしまうようになった結果、酸っぱさを出すために酢を加えるようになったというのが現代にぎりずしの原点と知りその変遷ぶりに文化としてのすしの存在を思い知らされました。そういう意味では、江戸前のすしといえどもその発展系の一つの分岐に過ぎず、食通ぶって江戸前こそすしの王道と言ってはばからなかった自分がとても恥ずかしいです。この本は既に2回読みましたが(笑)、バイブルとして折に触れ繰り返し読んでいきたいと思います。

先日行きつけの焼き鳥屋で友人とひたすらジョジョの奇妙な冒険の話をしていたら、店員さんが少し前にジョジョの荒木先生がお店に来られ、ジョジョ好きの自分としては手が震えてまともにサーブできなかったと打ち明けてきたのが印象的でした。天才荒木飛呂彦と同じ店の空気を吸ったという事実に大変興奮いたしました。


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投稿者: 金次郎

読書が趣味の50代会社員です。

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