金次郎、課題図書を読了し「闇の自己啓発」に挑んだものの・・・

 

いわゆる〈ポリティカルコレクトネス(PC)〉の見地から、性別や性的志向、人種や国籍などによる差別を含意してしまう言葉の使用を避け、中立的な表現に置き換える意識が高まって久しいですが、先日これもダメなのか、という例を目にしました。看護婦→看護師、ビジネスマン→ビジネスパーソン、スチュワーデス→キャビンアテンダントなどは分かり易いですし、女子力とか言ってはいけないんだろうな、というのは理解できるのですが、今回使ってはだめかもと知ったのはマンホールという言葉。そう、あの下水や埋設されている電線など地下インフラ関連の作業をするために開けられているあの穴です。どうやらそういう作業に携わった作業員の方がかつて男性であったことからその名前が付いたようなのですが、さすがに、雨の日にマンホールの蓋の上で滑らないよう気を付けましょう、と言う際に差別的な意味合いは全く無いと思いつつも、そういうことにも気を付けなければ誰かを傷つけてしまうのか、と思い直しNGワードリストに入れました。ちなみにPC的にはメンテナンスホールというのが正式なようです。ついでに色々考えてみたのですが、仕事でよく使う工数の単位であるman hourもたぶん不適切、業界用語のmiddlemanも恐らく✖で、騎士道精神の象徴で当たり前のエチケットであったレディーファーストも今や、お先にどうぞ、的なジェスチャーで下手をすると差別主義者のレッテルを貼られるという難儀な時代となっております。しかし、家政婦は見た、はPC的にはどういうタイトルになるのだろうか。ハウスキーパーは見た、だとちょっと雰囲気出ませんね(笑)。

さて、「闇の自己啓発」の課題図書⑤は「現代思想2019年11月号 反出生主義を考える」(青土社)です。この本は古代ギリシャに遡る〈生まれてこない方が良かった〉という考え方を独自の理論で〈反出生主義〉としてまとめ上げたデイヴィッド・ゼネターの主張についての様々な論稿を集めた構成になっています。

直感的に理解し難いところはありますが、ゼネターの主張のセントラルドグマは、存在してしまったために生じる苦痛は、存在しなかったことで発生する快楽の減少(=0)より常に大きいという基本的非対称性から出生を否定し、人類は穏やかに絶滅に向かうべき、というものです。

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大沢在昌作品の中で「新宿鮫」と双璧をなす代表作「狩人シリーズ」を紹介

そろそろ会社に少し顔を出そうかな、と複数の事業を経営する青年実業家のような感じで書きましたが、ただのテレワーク人材です(苦笑)。前回の緊急事態宣言の時同様に中途覚醒症状が発症し、上手くいけば21時就寝の3時起床、下手をすると22時就寝の2時起床、というようなぎりぎりの生活を送っております。あーよく寝たと思いながら目を覚まし、時計を見て1時だったときの辛い気持ちは人生で5本の指に入るぐらい厳しいものが有りますね。最近は、起きた際に聞こえる近くの高速道路の走行音(=交通量)でだいたいの時刻が分かるという特殊能力を身に着けましたが、全く役に立つ気がしません。

さて、大沢在昌先生といえば、以前このブログでも紹介した新宿を舞台にしたハードボイルド警察小説である「新宿鮫シリーズ」が有名ですが、商業的に疑問を感じるほど似通った内容を描いた「狩人シリーズ」なる作品群も手掛けられており、金次郎はこちらもかなり気に入って読んでいます。「新宿鮫シリーズ」ではキャリア警察官であるにもかかわらずある事情から出世も異動もかなわない境遇に追い込まれた鮫島が漠然とした屈託を抱えながら、警察という巨大組織の不条理な圧力に抗いつつ様々な事件を解決していくという、鮫島個人に焦点が当たった鮫島目線のストーリーになっています。一方、「狩人シリーズ」では中年太りで風采の上がらないノンキャリア刑事である佐江が、期せずして得た相棒とその相棒が持ち込んでくる面倒な事件にしぶしぶながらも関り、大変危険な目に遭いつつも事件を解決に導くという展開で、やや達観気味の佐江が相棒と結ぶ人間関係とそれが故に悩む佐江の葛藤を軸に物語は進んでいきます。鮫島と違い、佐江のスタンスは受け身でやや引き気味であり、作中での描かれ方もワンオブゼムという感じなのですが、逆に金次郎はその全体を見通す大局観や状況に応じたしなやかさが好きだったりもします。

まぁ「新宿鮫シリーズ」全11巻と「狩人シリーズ」全5巻を読破して、ようやくこの微妙な違いを朧気に理解したというのが正直なところですので、初読の方にはどちらもほぼ同じ印象になると思われます。より多く死にかけるのは佐江、意外にも恋愛がストーリーの重要な要素となっているのが鮫島、というのはちょっとしたポイントかもしれません。

では、「狩人シリーズ」の簡単な紹介と金次郎による独断評価です。

◆「北の狩人」(幻冬舎、以下全て同じ 上巻下巻):北国の訛の有る、明らかに尋常でない雰囲気でしかもかなり強い若者が新宿に現れ古い事件について尋ね回るところから始まるこの物語は、プロットもよく練られていますし、登場人物も魅力的で、1990年代の新宿の猥雑さも鮮やかに描かれているということで、その後シリーズ化されたのも頷ける秀作です。宮本という登場人物が非常にいい味を出しておりますし、主人公である雪人の恋愛も古風で良し。(評価★★★★☆)

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金次郎、「ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説」を読んで青春時代を懐古する

先日TBSの長寿番組であるCDTVサタデー(旧Count Down TV)が3月末で終了するという悲しい事実を知りました。番組開始当初から観続けてきた思い入れもさることながら、中年の金次郎夫妻にとってこのめまぐるしい音楽シーンにどうにかついていくために非常に程よいまとまり具合の情報ソースだったので、後継のCDTVライブ!ライブ!は存続するとはいえちょっと困ったなという感じです。ただ、音楽のマーケティングが形を変えたからなのか、コロナ禍だからなのかよく分からないものの、30位以内に長期間入り続ける曲がとても多くランキングが余り動かない週も結構有って、多様化の時代にランキングものはその役割を終えたのかもな、とも思ったりしました。しかし、何はともあれ、そろそろ新しい曲を覚えてカラオケにでも行きたい!

音楽つながりということで。「ザ・ブルーハーツ ドブネズミの伝説」(陣野俊史著 河出書房新社)はザ・ブルーハーツの歌詞の世界を、この伝説のバンドが活動した10年を振り返りながら、なんとか解釈しようと試みた著者の素晴らしい挑戦の書です。

金次郎にとって、1985年から1995年のブルハ(略称はこれでいいのか?)活動期間は中学入学から大学卒業までの時期で、まさに青春時代そのものであり、常にこのバンドの音楽が身近にあったわけですが、この本を読み改めて自分が曲の中身をよく理解していなかったこと、そして中身が分かっていないにもかかわらず金次郎の〈心のずっと奥のほう〉(「情熱の薔薇」より)に届いたこのバンドの曲の力を再認識しました。高校の文化祭で友人のバンドが演奏するブルハの曲に合わせて何度も何度も絶叫したのが懐かしく思い出されます。「リンダリンダ」、「人にやさしく」、「終わらない歌」、「NO NO NO」などなどなど。

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「四十八の冬」の金次郎が佐藤優先生の「十五の夏」に感銘を受ける

3月は本屋大賞の予想をする月のため読書スケジュールがかなりタイトなのですが、そこに「闇の自己啓発」関連の課題図書が加わり非常に厳しい状況です。そして更に、読み始めてしまったら止めるのは難しいと分かっていたのに、田中芳樹先生の「アルスラーン戦記」シリーズにまで手を出してしまいもはや瀕死の状態です。ぶり返している睡眠障害のおかげで何とかなっているという八方ふさがりでそこそこ辛いです。

さて、以前もこのブログに書きましたが、〈知の巨人〉としてリスペクトしている佐藤優先生の本は知的好奇心から常に読みたいと思っている一方で、自分の浅学さを突き付けられるのが辛いので若干躊躇する気持ちも否定できず、アンビバレントな葛藤の中で著作リストを眺め続けているうちにかなり時間が経過していて、この悩んでいる時間に100ページぐらい読めたのに、と後悔することがかなり有ります。

そんな中、少し前に入社当時よりお世話になっている大先輩の方から「十五の夏」(佐藤優著 幻冬舎 上巻下巻)をご紹介いただく機会が有り、金次郎の心のシーソーが、読む、の方に傾き久々に佐藤先生の本を手に取りました。

この本は、埼玉県立浦和高校に合格した優少年が、合格のご褒美として高1の夏に行かせてもらった東欧から当時のソ連への40日間の一人旅について綴った旅行記です。ハンガリーにペンフレンドがいたことや違う社会体制の国々の実情を見聞することに意義を見出したこと、という背景は勿論理解可能ですが、1975年の冷戦のさ中に15歳の息子にそういう旅をさせるご両親、それは人生を変える経験になる、と前向きに送り出す周囲の大人たちの感覚はやはり現代とはだいぶ違うと感じます。

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金次郎、「うっせぇわ」を聞き、「ロッキード」を読む

最近、異常に耳に残ってしまい、どうしても頭の中から消せないメロディが有ったので、調べてみると、それはAdoさんという高校生シンガーの「うっせぇわ」という曲でした。どうやら、親として子供に覚えて歌って欲しくない曲ナンバーワンということのようで興味が湧いたので歌詞をじっくり読み、YouTubeを観てみたりもしました。

まず何より臆病な金次郎としては、これまで48年間積み重ねてきたもの全てを否定されてしまう勢いの「はぁ?」のところでびびってしまい、序盤でかなり押し込まれている感じになります。そして、会話でのテクニックと思って常用しているパロディ的なネタについても、二番煎じ言い換え、もう見飽きたわ、と一蹴されてしまい、昔の面白話の思い出を語る技も、何回聞かせるんだそのメモリー、嗚呼つまらねぇ、と完全否定され、心を叩き折られた気分になりました。

うちには子供はいませんが、確かに、親:「手を洗いなさい」子:「うっせぇわ」、親:「宿題しなさい」子:「うっせぇわ」、親:「スマホの見過ぎ気を付けなさい」子:「うっせぇうっせぇうっせぇわ」とあの曲の節で言われる場面を想像するだけでぞっとします。世のお父さんお母さん、ご愁傷さまです。

ただ、親子ほども年の離れた若手社員と一緒に働く機会も増えているわけで、言葉遣いが悪いとか、良識が無い、などのそれこそAdoさんから言葉の銃口を突き付けられてしまうこと間違い無しの頭ごなしの説教はできるだけ封印して、入社当時に抱いていた因習、慣習やしきたりへの反骨心をどうにか思い出して、無意味に惰性でやっている仕事を押し付けて「クソ、だりぃな」と言われぬよう、本質を外さず時代に沿ったメッセージを伝えることで、極力円滑に仕事を進められるよう努力してみたいと思います。サラリーマンつらい。

さて、この時点で既にうっせぇのですが(笑)、「うっせぇな」と響きが少しだけ似ている「ロッキード」(真山仁著 文芸春秋)を読んでみました。以前このブログでも書いたように、故田中角栄元首相とロッキード事件には興味があり、そのテーマを「ハゲタカ」シリーズで大ヒットした真山先生が初ノンフィクション作品として手掛けられたと聞いてはもう我慢できず、早速購入したものです。

これまで何度も検証が重ねられてきた事件ということもあり、また金次郎自身が、この事件の定説について正しく理解できていないのも手伝って、正直どの部分が新たな論点、解釈なのかを明確に認識できたわけではないのですが、これが面白い本でお薦めであることは間違いありません。

詳細については是非中身をお読み頂きたいところですが、現金受け渡しのやり方や場所の不自然さ、全日空ルートの金額と目的の中途半端さ、そもそも総理大臣には機体選定の決定権が有ったのかという根本的な問題、など挙げだすと辻褄の合わぬ点はどんどん出てきます。

本書はそのような数ある不整合の中でも、とりわけ児玉ルートの資金使途が不明である点に着目し、かなりリアリティの有る陰謀シナリオを終盤で提示する構成になっていて、最後まで読み通すと、ヘンリー・キッシンジャーの策謀やリチャード・ニクソンの色濃い影の部分が浮かび上がってくると同時に、この本のタイトルが「ロッキード」とされた理由がお分かり頂けると思います。

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