金次郎、大谷翔平の〈二刀流〉に物申す

米メジャーリーグでの大谷翔平選手の活躍は文句無く素晴らしいですし、彼の存在が米国在住の日本人に多大なるプラスの影響を与えているという話を先日駐在員の方からうかがい、彼は本物のスーパースターなんだなとスポーツにやや疎い金次郎も遅ればせながら認識を新たにいたしました。そんな中、いつも何となく心に引っかかるものの、その原因が自分でもよく分からずにいたのが彼を称する際に頻繁に使われる二刀流という表現です。彼の凄いところは打者として連日試合に出ながら、その合間に投手としてもプレーするという、有り得ない身体の酷使をしつつも、フルシーズン活躍し続けられるという超人的な頑健さであり、更にはその両方のファンクションでトップレベルのパフォーマンスを実現している非常に高度なヴァーサタイルネスなのだと理解しています。にも関わらず、その凄さを表現するにあたって、剣法における型の一つに過ぎず、入り口としては誰にでも挑戦が可能であり、かつそれを極めたとしても一刀流を含めた他の型よりも必ず強いかどうかは保証の限りではない、というやや中途半端感を禁じ得ない二刀流という言葉を使ってしまうのはなんとも不充分かつ不適当なのではないか、というのが金次郎の引っ掛かりポイントであったと気付きました。たとえるなら世界陸上で100メートルとマラソンの金メダルを両方取ってしまうような、実際にはほぼ有りえないことを成し遂げている彼にふさわしい日本語を皆さんもご存知のはずです。そう、それが「二足の草鞋」です!現代では、医師と作家の二足の草鞋、アイドルと声優の二足の草鞋、などと安易に使われてしまっておりその価値が貶められてしまっていますが、きちんとイメージすればお分かりの通り、二足の草鞋を同時に履くことは基本的に不可能です。二足目にかなり大きいわらじを用意して、その大きい方の指が四本収まる部分に普通の草鞋を履いた足をぐりっと入れれば履けますよね、というような屁理屈は置いておいて(笑)、語義的にほぼ不可能なことを同時に行う、という意味のこの慣用句は、元来博徒と捕吏の二足の草鞋、のようにほぼ起こるべくもない、有り得ない場合を表現するのに使われておりました。このニュアンスだと、やや古いですが遠山の金さんは二足の草鞋的な雰囲気が有ろうかと思います。ということで、二刀流よりファッショナブルさやシャープさではやや見劣りいたしますが、今後大谷選手が活躍している場面では、彼のパフォーマンスのミッションインポシブルさにふさわしい表現を使って「リアル二足の草鞋有り得ん!」と称賛することにいたします。面倒臭くてすみません。

“金次郎、大谷翔平の〈二刀流〉に物申す” の続きを読む