やはりドラマを凌駕する面白さであった原作「不毛地帯」(山崎豊子著)を堪能

小説を読んでいてそれなりの頻度で目にする表現ではあるものの、なかなか自分で書く文章には使い辛いといった類のものが結構有るのですが、金次郎の中でのランキング1位は「肯んじる」です。読み方も難しくて、がえんじる、と読むのですが、この響きそのものが耳慣れないこともあり、オーディオブックで油断して聞き流していると〈~が演じる〉と誤読して意味が全く取れない事態になってしまいます。意味は〈容認する〉というようなニュアンスで使われることが多く、用例としては「そんな提案は肯んじられない」といった感じになると思いますが、如何せん正確な意味に自信が無く安易に使う勇気が出ません。同じような意味の言葉で「首肯する」も有り、これは〈頷いて賛意を示す〉の意味で使われ、ニュアンスの理解度的にはぎりぎり使えそうなのですが、そもそも日常生活ではそういう描写をする機会が無いので金次郎の文章にはなかなか登場させてあげられません。仕事上の面談レポートを書く場合にも「当社提案に対し、先方のA本部長は首肯した」とはならず、「当社提案を先方のA本部長は了承」のような感じで記載されることとなり、それこそ小説でも書かないと使えなさそうです。〈笑う〉を意味する表現もバリエーションが豊富ですが、未だに「破顔する」あるいは「破顔一笑する」は使えたためしが有りません。「神様のカルテ」シリーズで夏川先生はかなり頻繁に使っておられ、弾けるような笑顔のイメージを喚起する好きな表現ですのでどうにかして使ってみたいと密かに機会をうかがっているところです(笑)。同じく表情を一気に崩して笑う状態を意味するのが「相好を崩す」です。「相好」とは表情を表す表現ですが語源としては仏様の美しい身体的特徴を表す「三十二相八十種好」の略だそうで、ちょっと高尚な感じで使用には躊躇の念を禁じ得ません。こちらの表現もオーディオブックで聞き流していると〈そうごう〉ではなく〈そうぼう=双眸〉を崩す、と聞こえて両目の形を変えて笑うのような意味なのかな、と勘違いしたりもする要注意ワードかと思います。最後に紹介するのが、どうしても音の響きと意味が自分の中でぴったりと一致しない「頑是無い」です。がんぜない、と読み、主に子供の幼くて道理が分からない、無邪気であどけない様子を描写するのに使う表現なのですが、〈分別〉という意味のいかにも固い「頑是」という字面で完全に子供に対して使うモチベーションを失ってしまうのは金次郎だけでしょうか。

さて本の紹介です。不朽の名作「不毛地帯」(山崎豊子著 新潮社 )は2009年放送のドラマを観てすっかり読んだ気分になり満足していましたが、原作は更に面白いに違いないと思い立ち合計3000ページ越えの超大作に週末を全て潰して挑戦いたしました。主人公は陸軍士官学校を首席で卒業したエリート軍人で終戦時に大本営参謀の陸軍中佐であった壱岐正で、11年の過酷極まるシベリア抑留を経験した彼が、ようやく叶った帰国後に全く毛色の違う総合商社に勤務し、ビジネスという〈精神の不毛地帯〉に足を踏み入れ、親しい人々の突然の死を経験し苦悩しながらも組織の中でのし上がっていくというストーリーはあまりにも有名で紹介するのもはばかられます。壱岐が卓抜した戦略思考、臨機応変な行動力と人脈を駆使して、防衛庁(当時)の戦闘機選定、自動車メーカー再編、中東イランでの石油探鉱などのプロジェクトに取り組み出世の階段を駆け上がるサクセスストーリーはそれ自体非常に面白いのですが、この小説の素晴らしいところは壱岐が常に深い葛藤を抱え苦悩しているところだと思います。国益を第一に考える純粋培養軍人としての価値観に縛られ、ある意味〈生き残ってしまった者〉として戦争やシベリア抑留で失われた命への思念が念頭を去らぬ中で、人間の欲やエゴがむき出しになるビジネスの世界での戦いに身を置くことは、壱岐にとって正に実存をめぐるアンビバレントな無間地獄に他ならず、そういう心情が醸し出す暗さが表面的には眩いサクセスストーリーに見える彼の状況と好対照をなして物語に深みを与えていると思います。そしてこの深みを決定的にしているのが、商業面を考えれば小説の構成として不適切と思われる程に長く苦しい序盤のシベリア抑留パートの存在だと思います。あまりに辛すぎて読むのをやめる読者が何万人と出る事態が充分想定されたにもかかわらず、雪に閉ざされた〈白の不毛地帯〉を延々と描き続けることで、壱岐の抱える憂いに強靭なバックボーンを与えることに成功した山崎先生の気概と手腕に大変感銘を受けました。

また、山崎作品の特徴である創作における徹底的な取材の存在を強く実感させられるのが後半のイラン土漠地帯での石油探鉱を描いた〈赤の不毛地帯〉パートです。イランの石油公団、利権に群がる怪しげなブローカー、王族から謎の侍医に至る様々な関係者との微妙な駆け引きが続く権益取得に向けた入札の場面や、米オリオン社と臨んだ山あり谷ありの石油試掘作業についての詳細な描写は、現地を歩いて回る実地調査を含む相当綿密な取材無しには到底表現し得ないリアリティに溢れておりシンプルに凄いなと思いつつ、井上靖先生のシルクロードの旅を思い出しました。曲がりなりにも仕事関係で石油のことを少しかじった後に読んで良かったとこれまでこの名作を読まなかったことの言い訳といたします(笑)。最終盤での、壱岐が自分を引き上げてくれたワンマン社長の大門と対決するに至る流れは、更なる理と情の葛藤も盛り込まれ、激しい感情のぶつかり合いの迫力もあいまって見事なクライマックスであったと思います。しかし、最近よく使われている老害というコンセプトがこの本が出版された40年以上前に既に明確に形を表していて感心いたしました。出世や利益といった目的達成のためなら何でもやる、生まれながらの商社マンとして描かれる東京商事の鮫島は本当に汚い手段をたくさん使う最悪のライバルなのですが、恐妻家のところや失敗しても全くめげないところなどどうにも憎めない人間力(?)も含めて魅力的にキャラが立っていて、壱岐と鮫島どちらが好きかと聞かれると正直悩むというのが笑える読後感だなと思いました。金次郎が入社した約30年前に先輩方が言っておられたことがこの小説のパクリだったのか、それともそういう先輩方の集合体がこの小説のモデルだったということなのか、いずれにせよ懐かしい気分も味わえてよかったです(笑)。

「失踪者」(下村敦史著 講談社)はなかなかに凝った作りの山岳ミステリーです。10年前にペルーのシウラ・グランデ峰に挑んでいたさ中のアクシデントのため、クレバスに置き去りにせざるを得なかった親友樋口の遺体を回収するために再び同地に赴いた主人公真山はクレバスの底で発見した樋口の遺体が明らかに10年前より歳を取っている事実に驚愕します。樋口が生き延びたのは百歩譲って良いとしても、どうして同じ場所で何年か後に死んでいたのかという最大の謎に引っ張られ読み進めるうちに、更に過去に遡って描かれる二人の友情の紆余曲折にいつの間にか感情移入させられてしまい、最後の場面で謎解きのカタルシスと熱い友情への感動を両方楽しめる、二度美味しい秀作になっております。しかし、下村先生が登山はやらないというのが最大の驚きと言ってもいい程登山シーンの迫力とリアリティは素晴らしいと感じました。ミステリー好きは勿論ですが、山好きの方にもおすすめの作品だと思います。

来週から2週間の長期休暇をいただきます。こんなに長い間休んでしまって大丈夫かと思いつつ、気を抜くとずっと読書をしてしまいそうなので、気合を入れて計画を立てねばと考えております。少なくともこのブログのネタは幾つか確保したいところです。


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投稿者: 金次郎

読書が趣味の50代会社員です。

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