金次郎、「旅する練習」の三島由紀夫賞受賞をきっかけに文学賞について整理する

このブログでも紹介し、強敵「推し、燃ゆ」なかりせば芥川賞であったと思われる乗代雄介先生の「旅する練習」(講談社)が第34回三島由紀夫賞に選出されました。ちなみに昨年の第33回は宇佐見りん先生の「かか」(河出書房新社)が受賞していますし、最近の結果を見ても、上田岳弘先生、本谷有希子先生、村田沙耶香先生、今村夏子先生と作品はそれぞれ違うものの両方の賞を受賞されている作家が多く、乗代先生も有名になり過ぎてまだあまり売れていない新人作家から選出するという芥川賞の選考基準から外れない限りは受賞が濃厚と勝手に予想しております。

また、芥川賞未受賞者を対象とするとの暗黙のルールの下、新人の登竜門として新たな才能を発掘することに注力している野間文芸新人賞(講談社)を取ると、その後かなりの確率で芥川賞を受賞するのが一つのパターンとなっており、乗代先生はこちらも「本物の読書家」(講談社)で受賞済みであり、まさに今もっとも芥川賞に近い純文学作家といえるかと思います。

三島賞は純文学や評論、詩歌や戯曲までが対象となりますが、同じく新潮社が後援している山本周五郎賞は優れた物語に与えられる賞で、同じ方向性の直木賞よりは若干文学的というかエンタメに振り切れていないとの印象です。今年の受賞作はここしばらく読みたい本リストのかなり上位に入っている「テスカトリポカ」(佐藤究著 KADOKAWA)で、メキシコとインドネシアと日本で麻薬密売と臓器売買が出てくるお話だそうで、ちょっと想像を越えていますがとにかく読むのが楽しみです。

文学賞では上に挙げた芥川賞や直木賞が年二回の選考ということもありメディアへの露出も多く文学界の最高峰というようなイメージをお持ちの方もいらっしゃるかと思いますが、特に芥川賞は(三島賞もそうですが)、上述の通り選考対象が新鋭作家の作品とされており、権威としてはそこまで高いというわけではないようです。

それではどの賞がより権威が有るかというと、ちょっと自信がありませんが時代を代表する小説や戯曲を選ぶコンセプトの谷崎潤一郎賞(中央公論新社)、同名の新人賞(吉川英治文学新人賞)が存在するのでベテラン作家が受賞することの多い吉川英治文学賞(講談社)などが該当するかと思います。ちなみに最新の谷崎賞は「日本蒙昧全史」(磯﨑憲一郎著 文芸春秋)、吉川賞は「風よ 嵐よ」(村山由佳著 集英社)となっており、磯﨑先生は芥川賞、村山先生は直木賞受賞経験者でなんとなくより高い到達点という位置づけを感じますよね(笑)。

ただ、この他にも、川端康成文学賞(短編)、泉鏡花文学賞、野間文芸賞、柴田錬三郎賞、司馬遼太郎賞などなど数多くの文学賞があり、全貌は全く掴めておりませんので間違っていたらすみません。

更にこれ以外に高額賞金でも有名な江戸川乱歩賞のようにミステリーを対象としている多くの賞や、本屋大賞や新井賞のように本屋さんが何らかの形で選んでいるもの、最初にも少し書いた新人賞など挙げだしたらきりがなく、この世界は本当に奥が深く深入りするのが少し怖いです(笑)。

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金次郎、「カネを積まれても使いたくない日本語」(内館牧子著)の内容に慄然

バレンタインデーはまだなのに、日本橋三越で2月初旬から始まったバレンタインイベントで購入した年に一度の楽しみである高級チョコをなんともう食べてしまいました。今年はDelReYの10個セットで、外側のチョコ部分は勿論、中に入っているガナッシュが抜群でした。コーヒー、キャラメル、ピスタチオなどの定番だけでなく、金次郎がやや苦手としているパッションフルーツやエキゾチックフルーツのガナッシュも息が止まるほど美味で、不要不急かつ禁断のセカンドDelReYを買うかどうか真剣に妻と二人で検討中です。ちょっとお高いのは気になりますが、1個いくらという計算を忘れて楽しみたいクオリティです。

さて、自称読書家でもありますし、それなりに日本語は気を付けて使っており、会社ではメール内でのおかしな表現には中年らしく目くじらを立てております。会議中でも「今の発言は意味がよく分からない。」や「今の発言、これまでの議論の文脈と整合してないよね。」などと言ってしまう煙たいおっさんそのものです。

そんな金次郎が愕然とさせられた本が「カネを積まれても使いたくない日本語」(内館牧子著 朝日新聞出版)です。最初に出てくる〈ら抜き〉のあたりでは未だ内館先生と共に世の乱れた日本語を糾弾しよう、と意気込み、有名スポーツ選手が「オリンピックに出られる。」が言えずに「~に出れる。」でもなく微妙に変化して「オリンピックに出れれる。」と言ってしまったエピソードに、レレレのおじさんかよ、と突っ込みを入れる余裕すらありました。お名前様やご住所様などの表現にも違和感が有ったので、これに対する批判も、よしよし、と読んでおりました。

ところが、いきなり【させて頂く】がやり玉に上がると、時々使っていることに冷や汗。更に、【結構~します】や【というふうに】、【してみたいと思います】、【普通に】、【仕事で汗をかく】などの高使用頻度の表現がどんどん気持ち悪い、美しくないと断じられ、読み終わる頃には最初の勢いは消え、すっかり意気消沈でした。徹底的にへりくだる、断定を避けて存在しないリスクすら回避する、という姿勢が最近の言葉の乱れの背景とのことで、勇気を出してシンプルかつ美しい日本語でリスクを取っていこうと少し思いました。【やばい】というのはその筋の方が使っていた言葉のようですが、今ではすっかり定着し、上品なおばさままでもが「やぼうございます。」と言ったとの話は面白い。また、判断するを、判断【を】する、のように【を】を入れる表現もおかしいと書かれていて、読んだ直後に森会長が「不適切な発言につき、撤回をさせて頂きます。」と言っていて笑えました。

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