読書家金次郎、文豪にあやかる初夏の伊豆行(前編)

先週末、敬愛するAさんご夫妻と金次郎夫妻の4人で小旅行に行って参りました。いつもと少し趣を変え、最高に楽しかった思い出を忘れないための旅日記的なブログになりますことご容赦下さい。シンガポール駐在時代に知り合ったAさん一家とはこれまでオーストラリア、ベトナム、箱根と家族ぐるみで一緒に旅をしてきましたが、Aさんのお子さんたちもすっかり大きくなって手が離れ、12年ぶりの今回の旅は初の大人のみのものとなり、初めてお会いしてからの20年という月日を実感し、非常に感慨深い思いでした。旅の計画段階では、先ず各部屋に露天風呂の付いている温泉に行くことが決まり、新幹線を含む電車+レンタカーという移動手段を決めて目的地を選定したのですが、移動の新幹線が何気に高くつくために一定の予算を設定してしまうとどうしても北関東から東海にエリアが限定され、旅行好きの美容師さんに絶対いいから行くべきとすすめられた青森の奥入瀬渓流温泉は今回は落選となりました。色々と相談して最終的に天城の湯ヶ島温泉郷に有る谷川の湯あせび野という宿が運良く空いておりましたのでこちらを予約することといたしました。

天城湯ヶ島温泉は修善寺から車で約30分程度の山中にひっそり佇む温泉郷で、石川さゆりさんの天城越えが有名であるだけでなく、井上靖先生が自伝的小説「しろばんば」(講談社)で描いた幼少期を過ごした場所でもあります。そして何と言っても、ノーベル文学賞作家である川端康成大先生の実体験に基づくとされる名作「伊豆の踊子」(新潮社)で近くに有る天城山隧道が序盤の重要な出会いの場面の舞台となっているだけでなく、川端先生は毎年のように同温泉に長逗留し執筆活動をされたとのことで、結果論ですが読書家を自認する金次郎にとっては非常に嬉しい目的地選定となりました。さて旅行初日は東京駅で待ち合わせた後こだまで三島まで行き、その後伊豆急の踊り子号に乗り換えて修善寺まで行くという行程で、駅から宿までのレンタカー移動時間を含めても正味2時間程度で到着できる大変アクセスの良い場所でした。そんなに東京から近いというのに、僅か2時間離れただけとは思えない懐の深い自然に囲まれ静かに立っているこの宿が、金次郎の半世紀の人生で文句無しに最高のクオリティであったという体験を通じ、いつもながらの自分の無知と直接出向いて経験することの価値を改めて思い知らされた旅となりました。到着したその夜には妻と二人でまた直ぐに来たいと次回の予約の相談を始めたくなる程に入れ込んでしまうこの宿の素晴らしさについては追って紹介するとして、チェックインを済ませた我々はとりあえず近隣に軽く観光に行くことといたしました。ただ、夕食が18時30分からで、その前にロビーで無料で供されている美味しそうなコーヒーをぜひ味わいたいという総意により、その時間を確保するために17時までに宿に戻ることに。そうなると1時間ちょっとしか余裕が無く、妻の股関節痛にもご配慮いただいた結果、20分ほど山中の階段を上り下りせねばならない浄蓮の滝(天城越えの、舞い上がり揺れ堕ちる♪の前のところに出てきます!)は避けることとなり、結局やや遠くから旧天城トンネル(天城山隧道)を眺めるのみの観光に留めることとなりました。それでも、近くを流れる川の水の美しさをじっと眺めるだけでも心がすっかり洗われるようで、ウォーミングアップとしてはなかなか良い周遊となりました。天城では清流が育む山葵が有名ということも有り、道の駅で山葵ソフトクリームを食べようとテンションを上げていたのですが、日曜日だったせいか16時30分で道の駅が閉店となり無情にも我々の面前でピシャリとシャッターが降ろされてしまい、この旅での唯一残念な出来事でした。その後予定通り17時に宿に戻り、山の澄んだ空気と川のせせらぎそして鳥の声で満たされた気持ちの良いテラスで、ゆっくりとソファに座って美味しいコーヒーを飲みながら大人4人で談笑するという至福のひとときを過ごし、来るべき食事に備え一旦各自部屋に戻りました。部屋は大変清潔で、足の裏の感覚も心地よい畳6畳ほどの和室とそこから2段下がった広縁的なスペースにシングルベッドが2つという構造で、その寝室エリアからはゆっくりとくつろげるウッドテラスに出られる全面ガラス張りの掃き出し窓の向こうに美しい山の景色を眺められるというこれ以上無い環境でした。そんな部屋に興奮しながら騒いでいるうちに殆ど時間が無くなってしまったのですが、寝室エリアから繋がっている温泉かけ流し露天風呂を楽しみ倒そうという貧乏性から、とりあえずお試しで足だけ入ってみると、一生入っていられそうな心地よさで往路行の疲れは全て取れ、100%癒されて完全な状態で食事に臨むことができました。だいぶ長くなってしまったので続きはまた次回ということで。

さて本の紹介です。修善寺といえば鎌倉幕府二代将軍源頼家が幽閉された場所として有名ですし、少し遡ると源頼朝の異母弟である源範頼の暗殺が実行された地としても知られています。というわけで、今回の旅の事前課題として「源氏の血脈 武家の棟梁への道」(野口実著 講談社)、「河内源氏 頼朝を生んだ武士本流」(元木泰雄著 中央公論新社)、「鎌倉幕府の謎」(跡部蛮著 ビジネス社)を読んでみました。そもそも我々は初の武家政権を創立した源頼朝は偉大な武士の中の武士であるという概念に捉われがちで、後世の室町・江戸の両幕府がその先例を踏襲することで政権の権威高揚を図ったこともあいまって、あたかも頼朝の家系が先祖伝来一貫した武家の棟梁一族であったとの先入観を前提に史実の背景や因果関係を理解しようとしてしまう結果、正しい歴史認識ができなくなりがちという指摘はごもっともという感じでした。また、自らが開墾した土地を守るために武装した農民集団が武士の起こりであるというこれまた我々が日本史の授業で叩き込まれた概念は、敗戦後に支配的となったマルクス主義的階級闘争史観というバイアスの下での誤った認識であり、地方で割拠する源氏も平氏もれっきとした貴族集団であり、武装した軍事貴族とはなっているものの、基本的に在京貴族の価値観に基づいて行動しており、農民と武士の階級闘争ではなくあくまで貴族間の抗争を続けていた点を押さえておかないと歴史の流れを見誤るとの指摘も説得力抜群でした。実際に源氏は関東のイメージが強いものの、河内源氏の祖とされる源頼信以来その根拠地は畿内であり、鎌倉を拠点としたのはその子頼義が、関東での平忠常の反乱鎮圧の失敗で落ち目となっていた桓武平氏嫡流である平直方の娘を妻に迎えその所領支配を受け継いだところから始まったとのことでちょっと意外でした。逆に、直方は平将門の乱を鎮圧した平貞盛の直系であり、源平両方の高貴な血を受け継いだ頼義の子義家が武家のトップとは言わぬまでも、かなりの名門の御曹司と認識されていたことは史実なのだとは思いますが、それは源氏=武家の棟梁という認識とはやや意味合いが違うのかなとも感じます。ちなみに鎌倉執権家の北条氏はこの直方に連なる家系とされています。平清盛一派打倒に立ち上がった頼朝を支えた千葉氏や三浦氏も坂東八平氏と呼ばれる桓武平氏の庶流であり、源平合戦が平氏vs平氏の争いであった側面も改めて確認し、京の平氏と関東の源氏、貴族化した平氏と武家であり続けた源氏、などの分かり易い二項対立の構図が後世歴史家による歴史の過度な単純化であったことを思い知りました。ジェンダーバイアスによって卑弥呼の実像についての歴史認識が歪んでしまったという内容を別の本で読みましたが、ある時点で主流となっている価値観という物差しで歴史を捉えることの危険性を痛感いたしました。そういう意味では「八条院の世界」(永井晋著 山川出版社)は同時代の京で繰り広げられた皇族や貴族たちの激しい生存、出世競争について解説してある本で、貴族というものの認識がだいぶ変わって興味深かったです。所有する荘園から得られる収入を背景とした財力だけではなく、ある意味貴族にとって最も重要な〈位階〉についての影響力を有する人々がその力を存分に発揮して天皇、院、摂関家、武家の間の権力闘争で巧みに立ち回りしたたかに権力基盤を維持していたというのはなかなかに面白い新発見でした。

夫婦で診ていただいている整体院は田園都市線のたまプラーザに有ったのですが、担当の先生が独立され治療院を同じ沿線の青葉台に開院されました。おめでとうございます!何でも揃う素晴らしい町たまプラーザは名残惜しいですが、これから青葉台も開拓していこうと思います。

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投稿者: 金次郎

読書が趣味の50代会社員です。

「読書家金次郎、文豪にあやかる初夏の伊豆行(前編)」への2件のフィードバック

  1. 金次郎さん ブログの中で、伊豆小旅行の件触れて頂きありがとうございます。家内も喜んでいました。もう1泊でもできたら、もっと良かったにだろうと家内と話しています。現実生活に戻るとしみじみ思います。

    1. Aさん、早速コメントいただきありがとうございます。妻と少なくとも半年ぐらいは旅行の思い出で何度でも癒されそうで嬉しいと話しております。確かにもう一泊ぐらいできると完璧でしたが、少し思い残すぐらいが良いのではとも思います。また行きましょう!

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