コロナの時代にカミュの「ペスト」とデフォーの「ペストの記憶」を読む

毎日コロナ一色ですが、昔の人は疫病の蔓延にどう対処したのかなと思い、最近売れていると噂の1947年に出版された「ペスト」(アルベール・カミュ著 新潮社)と、1720年出版の「ペストの記憶」(ダニエル・デフォー著 研究社)を読んでみることにしました。

「ペスト」は、仏領アルジェリアのゴラン市を舞台に、 突然ふりかかったペストの災厄の凄まじさと、 その猛威に立ち向かう人々の姿を描いた実存主義小説ですが、 極度な楽観主義、現実を直視しない姿勢、形式主義のお役所が後手後手に回る様子など、 前半に記されている内容はまさに我々がここ数週間で経験した事象であり、 時代も病気も違うので物語中盤から後半にかけて描写される、為す術の無い感染の蔓延が実際に起こるとは思いたくないものの、 何とも不安にさせられます。

アルコール消毒と言いつつ酒を飲んだり、 誰彼構わず抱き着いて病気をうつそうとしたり、 自分だけは大丈夫だから感染しないと思い込んでいる人がいたり、 とこの辺の感じは現在とあまり変わらないですね。

本作は単純なパニック小説ではなく、 一読しただけでは全くその複雑なコンテキストを理解しきれない奥の深い文学作品なのですが、 特に宗教に関しては無神論の立場で語られていて、 「ペストの記憶」がキリスト教的世界観から逸脱せずに描かれているのと非常に対照的で、 17世紀と20世紀の違いを強く感じました。

人々が、次第にペストを集団的不幸として許容してしまい、 人間の多くの斑紋を掛け持ちして苦しめないという性質もあいまって、 感情の動きが単調になってしまうとの記述があるのですが(街は目を開けた睡眠者で満たされる)、 怖いけれど自分もそうなってしまう可能性有るので、 気持ちにめりはりを持つよう気を付けねばと感じました。妻と二人でたくさん笑うよう努力しようと思います。

また、こういう事態に求められることは派手なヒロイズムではなく、 ひとりひとりが誠実に自らの義務を果たすことでしかない、という記述には全く同感で、 完全な防疫をしないのなら何もしないのと同じ、という言葉は重く受け止めねばとも感じました。

「ペストの記憶」は「ロビンソン・クルーソー」で有名なデフォーの作品で、 1664年末から1665年にかけてロンドンで10万人が死亡したとされるペスト禍の状況を記したドキュメンタリー小説です。

全てを〈神の意志〉として受け入れ、 感染を恐れないイスラム教徒の考えを「トルコ的予定説」として批判している著者ですが、 自分も〉神の導き〉に従ってシティに留まる道を選択しており、 この辺の一貫性の無さが〈家族も含めた感染者の完全隔離策〉に対する賛否の立場の揺れも含め、 やや気にはなりますが、 当時のロンドン・英国内の混乱ぶりが様々な角度から描写されている点は非常に面白いと思います。

当局が流行初期にパニック回避のためペストによる死亡者数を少なく発表したり、 患者側でも種々の取り締まりを避けるために賄賂を使って別の病名を申告したりと、 結構現代に通じる部分が多く興味深いですし、 してぃの内側は大丈夫だという根拠の無い楽観論や、 無症状感染者による無自覚な感染の拡大、 少しの好転がもたらす気の緩みと感染拡大を繰り返すサイクル、 都市脱出者への迫害、なども色々と思い当たりますね。

インドのlockdownによって大量の人々が出稼ぎ先の大都市から何百マイルも離れた故郷に歩いて帰るしか生き延びる手段が無く、 多くの人が炎天下の高速道路を何日も歩いた末にコロナ以外の理由で亡くなってしまうとの報道を見て重なるものを感じると同時に、 緊急事態とは、言われている通り〈命の選択〉を強いられる厳しい現実である点を再認識しました。

勿論どちらの本にも特別な処方箋は示されていませんが、 救いと呼べるかどうかは分からないものの、 「もうだめだ」と思ったところで急速に疫病の勢いが後退するという両書に共通の歴史的事実を心の支えに、 日々地味に注意して生活して行くしかないな、と800ページほど読書したわりには当たり前のつまらない結論に辿り着いた週末でした。そんな最悪の事態に至らぬことを心から祈ります。

投稿者: 金次郎

読書が趣味の50代会社員です。

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