金次郎、佐藤優先生に刺激され高校時代を回想する

先輩に薦められ佐藤優先生の「国家の罠:外務省のラスプーチンと呼ばれて」(新潮社)を読もうとしていたのに、以前紹介した「十五の夏」の影響か手が滑り「友情について 僕と豊島昭彦君の44年」(講談社)を読みました。佐藤先生の浦和高校時代以来の親友である豊島昭彦さんが膵臓ガンで余命宣告されたことを契機に編まれた、言ってしまえば〈市井の人〉の来し方を描いたこの本は、その出版に至る経緯も影響しているのかもしれませんが、山あり谷ありの人生を投げ出さずに、自分の生きた証を刻むべく地に足を付けて日々の生活を送ることの大切さを実感させられる、50歳目前の金次郎の心にずっしりと響く内容でした。豊島さんの日債銀の破綻からあおぞら銀行での苦労や転職先のゆうちょ銀行での不遇の記述を読み、自分の環境は恵まれているなと感謝しつつ、それに甘えていることへの自覚と反省を新たにする良い機会ともなりました。でも、若い人にはちょっと実感が持てない内容かもしれないですね。人生の証を刻むことに加え仕事以外の生活を充実させることの大事さが作中で語られていますが、そういう意味ではこのブログもちっぽけではありますが、書き続けていて良かったなと思いました。これからも頑張ります。

ところで作中に佐藤先生と豊島さんとの浦和高校時代のエピソードについての回想が頻出するのですが、よくこんなに高校時代の出来事を覚えているなぁと感心しました。と言うのも、金次郎は高校時代の友人に会うたびに、自己中、周囲に興味が無かった、傍若無人、などと辛辣に非難されがちで(冗談交じり、と信じたい)、身に覚えはないものの本人も高校時代の記憶が曖昧なために、そんな筈は断じてない、と言い張ることもできず、とにかくすみませんでしたとよく覚えてもいないかつての自分の言動に謝罪することしきりであり、そんな自分と比較しての感心というわけです。

そこで、現代にネタが非常に乏しい金次郎として、今回は佐藤優ばりに高校時代の記憶を掘り起こして書いてみることにします。

しかし、いざ書こうとすると、入試、合格発表、入学式と一応経験した筈なのに全く記憶が無く、なんとなく校歌や応援歌、学校伝統の体操などを異常に練習させられたことを覚えている程度です。あ、その後応援団に入れと先輩から強要(?)され、泣きながら当時所属していた陸上部の先輩に断ってくれと頼んだ意味不明の記憶がいま蘇りました(笑)。学年10クラスのうち1年の時は1-7組で共学なのに男子クラス(ちなみに3年間男子クラス)、ちょっと癖のある字を書かれる国語のS先生が担任をされていたことは覚えているものの、そういうざっくりとした枠組み以外のディテイルが記憶障害のように思い出せません(苦笑)。

うんうん唸ってようやく思い出したのが、以下の恥ずかしいお話です。当時金次郎はやや悪めのヤンキー中学出身だったこともあり、えせヤンキーとして後ろ髪をウルフ的に伸ばしたりしてえせ微妙不良を気取るという恥ずかしい存在でした。そんな時S先生から、その髪を切ってきたら学校の一週間のプチ留学制度で香港と広州に行くメンバーに推薦してやる、と言われ、「いちご白書をもう一度」よろしくあっさりと優等生ふうに断髪しめでたくメンバーに選出されたというちょっと情けない話で、まさに「就職が決まって 髪を切って来たとき もう若くないさと 君に言い訳したね」(いちご白書を~♪)の世界です。ただ、この留学では、香港・広州各地でボンタン、ヤンキー座り(でも髪はさっぱり)で現地の人にガンを飛ばしまくっている非常に珍奇な写真を残せたり、同行していた別の高校の先輩が香港でパスポートを失くして目的の中国人高校生との交流ができず香港でヤムチャ三昧で過ごすはめになったのをからかったり、香港で購入した無修正E本を中国の掛け軸に巻き込んで持ち込もうとした同行者がお出迎え家族の面前でそれを没収され恥ずかしい思いをしているのをヒヤヒヤしながら眺めたり(金次郎はセーフ)、当時の自分にとっては大変刺激的で貴重な経験をさせてもらえました。田舎暮らしで国際感覚のコの字も持っていなかった金次郎にとって、この経験が現在商社で働く自分の原点になったような気もしていて、S先生には本当に感謝しておりますし、青さゆえの意地を張ることなく超現金にポリシーらしきものを捨て去った当時の自分も少し褒めてあげたいところです。どうも佐藤先生のように高尚な感じにならないのが残念ですが、今回はこんなところで。また気が向いたら記憶を絞り出して書いてみようと思います。

さて再び本の紹介です。「派閥 保守党の解剖」(渡辺恒雄著 弘文堂)は今や妖怪的なフィクサーとなっているナベツネ氏が気鋭の新進記者だった時代の著書で、非常に中立的、客観的な視点で大戦後の日本政界を駆動させてきた派閥システムの仕組みを記述しているなかなか興味深い本です。前編では、存在意義及び要件、資金調達、領袖の役割や求められる資質などの観点で派閥システムを整理した上で、後編で当時の各派閥の特徴や課題などを分析している構成になっていて、すっきりと腹落ちする分かり易さで、どういう経緯を経てこんな明快な記事を書いていた人が今のあの牽強付会な状態になるのだろうと不思議に思う読後感です。

資金調達オプションの拡充、中選挙区制への対応、大臣ポスト配分上のメリット、の三点が派閥の存在意義といえますが(政策が出てこないのが寂しい)、前者二つがほぼ陳腐化していると思われる現代においても三番目は未だに機能しているように見えます。なぜそんなに政治家が大臣に拘るかと言うと、これも解説されていますが、大臣や元大臣の肩書はとにかく選挙で有利なようで、落選すればただの人となる政治家にとっては多くの大臣ポスト配分が見込める有力派閥に属することには大いなるメリットが有ると分かります。また、戦後貴族制が排され、根強く残る官尊民卑の風潮の中、叙勲までには時間がかかるので手っ取り早く名誉を得たいという輩が大臣ポストに群がる構図は、この考察が書かれた時代から現代に至るまで変わっていないのではないかと思うとちょっとぞっとします。

「紙の月」(角田光代著 KADOKAWA)はドラマ&映画化もされた買い物中毒からの横領のお話ですが、普通の真面目な人間が、その弱さゆえに自分の行動の中になんとか正当性を捻りだし、そのうち逆にその正当性に取り込まれ依存するようになり、思考停止に陥った結果、ほんの少しの心の空隙があっという間に大きな闇に成長してその人の人生を飲み込んでしまうという、すぐそこにあるかもしれない危機を疑似体験させられる恐ろしくも読むのをやめられない作品です。この主人公梅澤梨花を宮沢りえがどう演じたのか、珍しく映画にも興味が湧いた一冊でした。

「つまらない住宅地のすべての家」(津村記久子著 双葉社)は、女性脱走囚接近の噂をきっかけに、ありきたりの町の普通の人々の生活が動き出し、彼らが抱える闇や葛藤が不思議とほどけ始めるちょっと変わった物語です。バタフライ効果ではないですが、自分が行動することで誰かの人生に思わぬ影響を与え、それがまた自分に返ってくるというプロセスがなんとなく人生の意味そのもののような気がしてくる、全体的に暗い話なのに、躊躇せず動けと背中を押されたような気分になる不思議な読後感の作品でした。嫌な人しか出てこないのに(笑)。

次回は「図書館戦争」シリーズか話題の「スモールワールズ」か、はたまたその両方か、紹介する本は決まっているので、あとは前半の雑談部分のネタ探しです(笑)。

投稿者: 金次郎

読書が趣味の50代会社員です。

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