金次郎、バブル時代のビールかけの記憶を呼び覚ます

金次郎は1980年代後半は高校生でしたので、バブル経済というものの恩恵に浴した実感が有りません。父は銀行員でしたが当時も特段羽振りが良かったということは無く、日々の食事が豪華になったというような記憶も全く残っておらずで、辛うじて糸井重里率いるプロジェクトチームが高校生にも分かるレベルで大金を投じ徳川埋蔵金を見つけようと躍起になって赤城山中を掘り返しまくっていたテレビ番組(1990年6月~)を見て、景気がいいなぁと漠然と感じていた程度でした。

金次郎は1991年4月に大学入学のためバブルの本場東京にやってきたのですが、やはり当時はそういう感覚は無く、後になって振り返ってみて初めて、あれはバブルあるいはバブルの残滓と呼べるものだったのではないか、と感じる経験を幾つか思い出す程度です。そんな数少ない記憶の中でも一番印象に残っているのは、ある大会の打ち上げで催された大々的なビールかけ宴会です。今もやっているのかどうか分かりませんが、プロ野球選手が優勝すると嬉々としてやっているあの大騒ぎです。あんなお祭り騒ぎに大学生の身分で気軽に参加していたことに当時は全く違和感を感じませんでしたが、あの非常識ぶりは完全にバブルに踊らされていた異常事態であったと今では理解できます。絶え間なく降り注ぐビールの雨、まさに泡まみれとなる身体、ビールの海と化した床を泳ぐたくさんの人々、痛過ぎて開けていられない目、要領良くゴーグルを準備してニヤついている先輩、日焼けした肌にとにかくしみまくるビールと、あの阿鼻叫喚の食堂はあまりにもヤバい非日常な空間でした。しかし、その頃の若かりし金次郎にはそれを客観視することは全くできず、ひたすら楽し過ぎて大はしゃぎし、その後も夜通し遊んだ挙句に、乾いていたとはいえビールまみれの状態で山手線始発に乗り込み、そのまま爆睡してしまうという醜態ぶりでした。このブログを書いていると封印していた記憶が蘇ってしまうことがよく起こるのですが、目を覚ました時間から逆算すると寝ている間に山手線を5周もしてしまっていたようで、うっすらと覚醒した際に感じた、通勤されている方々からの迷惑千万という痛い視線のイメージが鮮やかに思い出され、若気の至りとはいえ、申し訳ない&恥ずかしい気持ちでいっぱいとなりやや凹みました。

その他にも、殆どまともに教えなかった個別指導塾講師バイトの時給が有り得ないほど良かったり、同僚のバイト講師の先生が株で大儲けしてベンツを乗り回していたり、大学の学費はぎりぎりまで支払わず株で運用して利益を出している学生がいるなど、不相応に金回りの良い話が多く、田舎者の金次郎は純朴に東京って凄い所だなと思っておりましたが、単に世の中全体がバブルで異常な雰囲気に覆われていただけだったという話なのだと思います。今も都心の不動産は当時を彷彿とさせる上がりっぷりですが、浮わついた雰囲気は無く、寧ろコロナ、ウクライナ侵攻、米中対立、景気後退懸念などからほんのり暗い停滞感が有り、これはこれでどうなのかなとも感じますが、悲惨だったバブル崩壊後のような状況にはならなさそうなので取り合えず良しといたします。ここでまた封印記憶が蘇りましたが、バブル崩壊後の不良債権処理で深刻に苦しんでいたであろう父に無配慮に「なんで世の中の人は異常なバブルがいずれ弾けることに気付かんかったんやろうね?考えれば分かりそうなもんたい。」と傷口に塩を塗るようなコメントをしたことを思い出し申し訳ない気分になりました(涙)。

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金次郎、43年前のピカピカの一年生時代を思い出す

4月は入学の季節ですが、この機会に43年前に金次郎が晴れてピカピカの一年生になった頃のことを無理矢理思い出してみようと思います。当時は父の仕事の都合で故郷の福岡を離れ、縁も所縁も無い岡山県岡山市に住んでおりました。後になって地理で勉強して改めて実感したのを覚えていますが、岡山の天気は瀬戸内式気候そのもので温暖且つ雨が少なく非常に過ごしやすかった記憶が有ります。おまけに梨、桃、ぶどうなどのフルーツが豊富で入手し易く、裕福ではなかった我が家の食卓も食後のデザートには不自由していなかったようにぼんやり思い出します。こうして書いていると、随分昔の話でこれまで殆ど忘れていた記憶が少しずつ蘇ってきて不思議ですが、アパートの屋上に皆で集まって夏に打ち上げ花火を見たこと、父に後ろを支えてもらって初めて補助輪無しで自転車に乗れたこと、友達の家の前の広場でたくさん取ったバッタをカマキリと同じ虫かごに入れてしまったらみんな食べられていて悲しかったこと、裏路地の駄菓子屋や通学路の豆腐屋の風景などが結構鮮やかに浮かんできました。福岡で過ごした高校までの記憶がスカスカであまり思い出せず、妻によくどういう少年期を送ったのかと不審がられるのですが、6~7歳の時期にたった2年しかいなかった岡山のことをこんなに覚えているとは我ながら意外でした。

小学1年生の担任をしてくださったのはA山先生というとても優しい女性の先生でしたが、先生は津山というかなりの遠方から通われており、毎日遠くから大変だと両親が話していた記憶が有るのですが、何の因果か金次郎の今の職場で津山に所縁のある仕事をしており同僚がこれからたびたび当地を訪問することになると思います。津山市の人口は約10万人と意外に多く、A山先生の消息に辿り着くことはないでしょうが、お元気でおられることを祈念しております。小学校では初めて食べた給食のアイスクリームチーズケーキが体に合わず3日間ほど寝込んだり、後ろの席のM岡君から背中を鉛筆でブスブス刺されて辛かったりと(今でもその跡が残っている)、あまり良い思い出は無いですが、40年ぶりにY山さんという女子に初恋をしたことを思い出しました。彼女の制服姿が子供心に可愛く見えた金次郎少年でしたが、現在とまるで違って大変シャイだったため殆ど会話をすることはできなかったように思います。懐かしい。しかし、何と言っても岡山の一番の思い出は美しい旭川の川辺を母と妹と散策し、四葉のクローバーを探したり、春につくしを摘んだりしたとても穏やかで優しい情景の記憶です。岡山城の遺構が有って、素晴らしい庭園である後楽園のすぐそばを旭川が流れるあの風景は心に沁みる情緒が有り、特に夕暮れ時の眺めは、忘れてましたが、懐かしい原風景として脳裏に焼き付いております。できることなら改めて眺めてみたいと強く思いますが、半世紀近く昔の記憶ですので、色々と変わってしまっているのでしょうね。

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